Linuxを中心とした話題を投稿予定。 使用ディストリビューションであるFedoraが中心になると思われます。http://oedipa.wiki.fc2.com/にてTips Wikiを公開してます。
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
叱ることの出来る人
教える側の心境
上の投稿でも触れましたが、私は今塾の講師のアルバイトをしている。アルバイトと言えど、生徒から見たら私は「先生」。社員の先生と、何ら変わらない。
昨年度の一年間、中学一年生のクラスを担当した。その校舎ではクラスを2つのレベルに分けており、私は下の方のクラスの担当だった。
そこで教えていて、痛烈に感じたことがある。
「叱る」ことの難しさである。
テキストの内容を教えるのは、こっちがしっかりと内容を把握しておけば、それほど難しくは無い。だって、中学一年生の内容なんですもの。分かってもらうためには努力が居るけど、そこは根気よく問題を何度も解いてもらったり、時には一人一人見て回って分かりにくそうな人には指導する。
ただ、クラスを持って最初の方はお互い緊張しているのであまり騒がしくないが、しばらくして慣れて来ると、どうしても騒がしくなって来る。これはいささかしょうがない部分もあると思う。みなさんも、小学校とか中学校のときに、ふとしたはずみでクラスが騒がしくなって、先生に怒鳴られた、なんて経験おありではないだろうか?
私は小柄でやせ型で気の強い方には見られないので(事実気は強くは無い)、段々騒がしくなって来てしまった。ここで、それでは授業が進まないのでこう注意する。
「は~い、いいかな~、説明するよ~、静かにね~。」

…きっとこれが失敗だった、今ではそう思っている。
あまり大きな声を出すこともなく、生ぬるい対応をしてしまったのだ。そうすると、きっと生徒はこう思うんだろう。
「あの先生、別に怖くもないし、そんなに怒らないじゃん」

こう思われてしまったが最後、なかなか静かにならない。あまりにうるさくなってきてしまったので、
「おい!聞けよ!静かに!」
と大声で叫んだら、ようやく静かに。
ただ、一人の生徒がぼそっと
「あ、先生キレた。」
と、とても無感動にこぼしたのを覚えている。そう、そんなもんなのだ。一度この人はこんな人だ、と認識されてしまうと、それをひっくりかえすのが凄く難しい。

それに、「叱る」ことそのものが難しいと思う。感情的になってそれをダイレクトにぶつけるのもいいとは思えないし、かといって静かにさせておくだけの迫力も私は持ち合わせていない。
だから、「叱る」ことのできる人、先生は実に素晴らしいと思う。
今は教師が生徒に手を上げるのはご法度だ、なんて風潮が流れてるけど、必ずしもそうではないと思う。

私は、小学生のときは間違ったことをしたときや約束を破ったときは父親や母親にぶたれた。いわゆるお尻ペンペンもされた。すごく痛くて、わんわん泣いた。でも、そこにはきちんとした「理由」があった。私が間違ったことをして、それがいけないことなんだ、それを理解させたい、そういう「理由」があった。そんな理屈は、小学生のときには分からなかったけど、でも「これはやっちゃいけないんだ」というコトだけはしっかり分かることが出来た。
中学校に上がってからは両親の考えから私は「一人の人間」として扱われていたので、意見がぶつかったときは一方的に叩かれるとか言うことは無く、話合い(という名の喧嘩ではあるが)で事を済ませた。

やっぱり、「これはしてはいけないんだ」と言うことをしっかりと理解させて上げる、これは必要なことだと思う。それに関して、多少手を上げることも必要だと思う。暴力は反対だ。でも、…うーん、うまく言えない。でも、子供にだって、その痛みが、謂れの無い暴力か、それともしっかりとした「しつけ」の痛みなのかは理解できると思う。
これは親だけではなく教師でもそうだと思う。体罰は反対だ。だけど、悪いことをするとぶたれる、これくらいは半ば当り前だと思う。特に、小さいときには必要だと思う。いわば、「トラウマ」にしろ、とでも言ったところか(これは言葉が悪いのだけれど)。

これはやってはいけないことなんだ、それをしっかりと理解させる、これが「しつけ」なんだと思う。だから、私は「叱る」ことの出来る人、先生は素晴らしいと思う。

私も、そういう人間になりたいし、なっていかなくてはならないと思っている。

スポンサーサイト
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。